車輪生物が活きるためには。

福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」だったか、 本川達雄氏の「ゾウの時間 ネズミの時間」だったか、ちょっと記憶があいまいだが、自然界にはバクテリアレベル以外に車輪生物はいないらしい。なるほど、確かにそういわれればそうだ。

ところが、人間界を見渡せば、もはや車輪なくしてこの文明は成り立たない。そのくらい便利であり、効率も良い。速く、少ないエネルギーで、重いものでも遠くに運ぶことができる。人類の発明の中でも偉大なものの一つではないだろうか。

では、それほどまでに効率的なものなのに、なぜ生物界には自らの体を車輪に進化させるものが現れないのだろうか。

なるほど、確かに便利ではあるが弱点も多い。すぐに真横には動けないし、段差があったら先へは進めない。平らであっても雨が激しく降ったあとにできたぬかるみだけでもう動けないし、雪が積もったらもうお手上げだ。

車輪が活きるにはその環境があってこそだ。車輪そのものの発明もさることながら、人類の凄さは車輪がいきる世界を創り上げたこと。と同時に、ルールがなくては混乱の極みとなる。

整備とルールがあってこそ、その性能も輝く。

子供達の持つ性能を上げる一方で、その才能が活きる環境を創り上げることが大人のもう一つの役割であった。

が、しかし、そのためにすべての土地を平らにし、舗装し、環境を変える時代はもう終わった。環境を破壊しつくしてまで生きるのではなく、与えられた環境の中で、自分の持って生まれた性能をどう活かしていくのか。それが問われる。

自動車を捨てることはもはや人類にはできないだろう。

これからの世に求められるのは整備された道路を誰よりもはやく駆け抜けていく高性能の車だけでなく、荒れ果てた土地でもぬかるんだ場所でも前進していくことができるまったく別次元の車輪生物なのだと思う。

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続・必読。もう一つの給付金

「高校生等奨学給付金」という名の支援金がある。

就学支援金同様、私立高校だけでなく国公立に進むご家庭にも給付される。こっちの制度は知らなかったという人もいらっしゃるのではないだろうか。

ただし、これは生活保護世帯、住民税非課税世帯を対象にする制度なのですべての方に支給されるわけではない。が、就学支援金とは大きく違った申請方法なのでその意味も込めてお知らせしていきたい。

何が決定的に違うかというと、就学支援金は高校が主導で申請方法をリードしてくれるが、こちらは各ご家庭が自分で書類を取り寄せ、自分で役所に届けなければいけない

公立では対象生徒が多い可能性もあるので、学校からお知らせがしっかり届くと思う。

が、私立高校によっては学校がその存在を知らせてくれない場合もある

私立高校に入れるくらいなら生活保護や非課税なんてないでしょと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、公立第一志望だったが惜しくも私立という子もいるし、何より経済状況はいつどうなるかわからない。自然災害大国日本に住んでいる以上、例えば台風の災害にあって何もかも失う可能性は誰にだってある。お金がないのは罪ではないのだ。

さて、この奨学給付金についてまとめてみよう。

①対象は生活保護世帯、住民税非課税世帯。

すべてご自分で申請する。学校は積極的でない場合が多い。

③必要書類は「申請書」の他に「在学証明書」と「課税証明書」などの証明書。マイナンバーカードがあると手続きはぐっと楽になる。学校によっては在学証明書の発行に日数がかかる場合があるのでお早めに。

④給付金なので返済する必要はない。

申請先は学校ではなく都道府県。市町村ではなく都道府県。場合によってはお役所仕事バリバリの縦割り自治体にお住みの方は市町村に問い合わせも「わからない」なんていう寒~いお話も有り得る。書類提出は郵送でも可能なので都道府県にお問い合わせを

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/mushouka/1344089.htm

⑥前日の就学支援金は学校が受け取りその差額が保護者口座に振り込まれるが、この奨学給付金は保護者の口座に直接振り込まれる。授業料以外の教育費を支援する制度なので、教科書や通学費用などにあてるためである。

⑦状況によって金額が異なる。生活保護と非課税でも異なるが、国公立と私立、全日制と通信制、第一子と第二子以降でも大きく異なる。以下は私立の場合だが国公立も左に記載されているので注目してほしい。

⑧申請方法も都道府県によって異なる。ですので、か・な・ら・ず、お住いの都道府県にお問い合わせください!

⑨肝心の支給時期だが、これもまた多くの都道府県で6月申請、給付は12月である。制度上様々な事情があるのはわかるが、もう少し早くならないだろうかと思う。

おおまかに列挙したが、とにかく「ご自分で申請する」。これが最大のポイントである。

では、もう少し早く支援してくれる制度はないのか・・・ということ、これが実はある。ただし、自治体による。

ここ相模原市では「相模原市奨学金」というものがあって、額は大きくないが(20,000円)なんと入学支度金として年度初めに支給される。また、修学資金として第1期、第2期、第3期の年3回に分けて支給される。これは大きい。ただし、これも時期が大切だ。入学支度金に関しては中学3年生時(3月31日まで)に申請しなければならない。市内在住で生活保護を受けていなければ海外の方でも支給される。

http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/kurashi/kosodate/teate_josei/1014141.html

(それにしても、多くの自治体のHPがいまだSSLになっていないのはなぜだろう・・・)

このような制度を設けている自治体もあれば、まったくないところもある。大切なことはご自分で動くこと。学校や役所に問い合わせれば今まで知らなかったことが出てくる可能性がある。場合によっては申請時期を過ぎてしまって・・・なんてことも有り得るのでぜ・ん・り・ょ・くで動いていただきたい

使えるものはすべて使う、貰えるものはすべていただく。受験前も最後は神頼み!? 神様だろうが仏様だろうが我が子ための使いまくる!

この精神でいきましょう!

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必読。私立高・就学支援金の落とし穴

2020年度、つまり現中3生が入学する代から高校就学支援金が大幅に改正され、私学も授業料は実質無料となる。

というのは聞こえがいいが、とくに第一子が私立高校入学を予定されている場合は注意が必要だ。人によってはかなりマズい状況になる可能性もあるので、今からしっかりと準備をしておくべきだ。お金は急には集まらない。

改定される制度は「上限額を引き上げる」とか「課税所得を基準に判定」など実質無償化をうたっている。それはその通りだ。がしかし、お金がかからないなら…と準備をしていないとハマる。下手すると退学となる。

なぜなら、支給されるのは早くて「今の時期」から。つまり、ここまでは入学金や施設費はもちろん、授業料も払い続けなければならない。

所得額だろうが課税額だろうが、それが通知されるのはその年度の6月。つまり、そこから「判定作業」が始まるのだ。そして認定されるのがちょうど今頃。そこから送金作業が始まり、保護者の口座に振り込まれるのは12月ごろだろう。これらの日程は自治体によって異なる。

この流れを把握していないと、とんでもないことになる。多くの私学は3ヶ月の授業料滞納で出席停止または退学だ。よって、4月から11~12月までの授業料まで用意していないと詰む当然、合格通知をもらった後に行う入学手続きの時はまとまったお金が必要だ。

課税額がいくらからというラインがあるが、低所得者にとってそんな線引きは関係ない。とくに非課税世帯にとっては300万だろうが100万だろうがそんなものは関係なく、問題はいつ入金されるかの一点なのである。

また、これらの制度は国の支援金と自治体の学費補助金の合わせ技で行うので住んでいる場所によって金額が異なる。例えば、我が家のように神奈川県在住で東京の私立に行っている場合は、東京在住の方とは支給額が違う。ここも注意だ。なお、その補助金には全額ではないが入学金補助もあるので助かる。

まとめよう。「高等学校就学支援金」について。

①認定は11月、支給は12月以降。

②合格通知後の入学手続きの時は入学金や施設費などまとまったお金が必要。

認定月~3月までの授業料は自治体から学校に直接納入され、その残額が保護者口座に振り込まれる。

④それまで未納分がある場合はそこで相殺される。未納期間がどこまで考慮されるかは私立高校次第。

⑤手続きは「高校入学後」。学校が主導して手続きの案内をしてくれるので、それに従ってやればよい。

⑥ただし、最終的な書類提出は家庭から学校なので、家庭が書類を出さないと支給されない。

⑦最初の書類提出は入学直後。ここでは意思確認。正式な書類提出は6月以降。

⑧高2以降は年度初めは省略され、6月過ぎの書類提出1回だけで済む。

⑨支給額は学校所在地ではなく、保護者生徒在住の自治体によって異なる。これらはすべて給付型であるので返済は不要である。

⑩(おまけ1) 某お笑い芸能人ではないが自営業など万が一「確定申告(税申告)」をしていない場合、対象にすらならないのでそのようなことがないように。

⑪(おまけ2)支援金上限額に対して私立の授業料の方が安いとき、当然のことながらその差額は支給されない。

というわけで「私立無償化」という言葉に惑わされて、お金を用意していないととんでもないことになるのでしっかりとした準備が必要だ。

なお、この「就学支援金」は原則授業料等に充てるものであって、その他にもこれがまたいろいろかかる。入学金や施設費はもちろん、教科書費、学用品、制服代、修学旅行積立金などなどなどなどなどなどなどなど…。

ただし、それらに関しては、生活保護世帯と住民税非課税世帯に対しては「高校生等奨学給付金」が支給される。

また、自治体によっては独自の奨学金を設定しているところもある。相模原市は、な、な、なんと入学前に支給される制度がある。額は小さいがこれは嬉しい。これらについては就学支援金と手続きがかなり異なるので次回のブログでポイントを述べる。

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私の名画②「ローマの休日」

前回「明日に向って撃て」で原題の話をしたのでその続きから入ろう。

いまだ根強い人気を誇る「ローマの休日」。お父さんお母さんもご覧になった方は多いだろうし、観ていなくとも題名は知ってるという人も多いのではないか。ストーリーは王道中の王道、いやこの「ローマの休日」によって王道ができたのかもしれない。

日々に疲れたアン王女がつかの間の冒険と恋をローマで楽しむ物語である。つまり、「ローマ『での』休日」だ。

さて、これをそのまま英訳すると、

Holiday in Rome.  となる。

ところが下の題名を見ていただきたい。

「ローマの休日」の原題は『Roman Holiday』なのである。直訳するなら「ローマ人の休日」「ローマ式の休日」となるだろうか。

だが、ヘップバーン演じるアン王女はイタリア人ではなく、物語もローマ人によるローマ人のためのローマ式過ごし方の紹介ではない。 この「Roman Holiday」というのは別の意味があって、それは古代ローマ人に由来する。そこが面白い。

劇中にも出てくるコロッセオ等で古代ローマ人は奴隷同士を戦わせ、それを見て楽しんだ。つまり、他人の不幸によって成り立つ娯楽、他の人を苦しめて喜ぶのが「Roman Holiday」のもう一つの意味、いや本当の意味なのである。

最近の映画でいえば「マイティー・ソー/バトル・ロイヤル」である。グランドマスターが支配する星でソーとハルクが闘い、それを観て民衆が熱狂する。少し前でいえば、ラッセル・クロウの「グラディエーター」がまさにそれだ。

あの素敵な恋物語である「ローマの休日」の原題は、実は悪趣味な意味の語だったのだ。では、なぜだろうか。

物語の前半は確かに「他人の不幸」だろう。アン王女の不自由な日々。きつい服や靴に締め付けられながらもそれを表に出すことはできない。まるで人形だ。延々と続く挨拶と握手。舞踏会では棺桶に片足つっこんだじいさん達とのダンス。口臭衛生の概念などない時代。地獄のような臭さだったに違いないw

映画を観るとき私達はどうしても出演する俳優に心をとらわれてしまうが、映画は監督のものであり脚本家の分身だ。作品は彼らそのものなのだ。また、時代背景も色濃く反映される。監督・製作はウィリアム・ワイラー。「嵐が丘」「ベン・ハー」などアカデミー監督賞受賞3回という記録を持つ大監督だ。

「ローマの休日」は1953年。 冷戦が始まり、アメリカは共産主義への恐怖からいわゆる「赤狩り」が世を席巻する。ジム・キャリー主演の「マジェスティック」にも描かれるがハリウッドはその標的となる。 ウィリアム・ワイラーは抵抗した一人だ。 そして「ハリウッド・テン」と呼ばれる脚本家がいた。

ダルトン・トランボである。「ローマの休日」の脚本は彼が書いた。がしかし、赤狩りのため表に出ることはできない。だから名前を借りた。古いクレジットでは脚本はイアン・マクレラン・ハンターとなっている。トランボについては「トランボ・ハリウッドに最も嫌われた男」という映画があり、ラストの演説は泣ける。

これらの時代背景などから彼らは皮肉をこめて「Roman Holiday」と名付けたのではないか。故淀川長治氏が「なんていやらしい原題か」とつぶやいた記憶もある。また、弾圧の日々の中、監督・脚本家のプライドとして、映画は娯楽、だから徹底的に楽しい映画を作るんだという気概もあったかもしれない。

劇中の一場面。アン王女は質問する記者に対し「人と人との信頼が永遠に続くことを願う」と答える。そもそもなぜローマか。アン王女の設定はヨーロッパのある国の王女。ならば、そのロマンスの場所はアメリカでも良かったのではあるまいか。

しかし、ラストで、あの最高のラストにおいて「最高の都市はどこ?」と聞かれたアン王女は「ローマ、ローマこそ最高」と声高らかに答える。そこにトランボや ウィリアム・ワイラー達の心の声があるのかもしれない。

グレゴリー・ペックとの別れを決意したアン王女の凛とした姿に涙する一方、製作者たちの叫びが聞こえた気がした。

それでもやっぱり「ローマの休日」。トチ狂ってRoman Holiday をもじって「浪漫ある休日」などとされなくてよかった。

これだけの名作&王道ストーリーだから同じような作品はたくさんある。日本では武田鉄矢主演の「ヨーロッパ特急」。実はこれは超絶に泣ける。はっきりいってモロパクリである。が、泣ける度は金八先生どころではない。DVD化はされていないのが至極残念であるが、観る機会があったらぜひお見逃しなく。

そこで、もし現代の日本でリメイクするならこんな配役で。まず、オードリー・ヘップバーンは広瀬すずさん。

グレゴリー・ペックはディーン・フジオカ氏。

雰囲気、似てると思いませんか。当然異論は噴出でしょう。

がしかし!! 美容師のマリオは誰が何と言おうと…

ムロツヨシ氏にお願いしたい。役柄もぴったり。

きっと素敵な物語になる。

次回予告――― 「銀河鉄道999」「さよなら銀河鉄道999」。といっても予定は未定であって決定ではない。

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私の名画①「明日に向って撃て」

セピア色の冒頭からラストのストップモーションまで、すべてがカッコいい。ロバート・レッドフォードが最高だ。私のNO.1映画である。

原題は「ブッチ・キャシディ&ザ・サンダンス・キッド」。

無名だったロバート・レッドフォードがこれでさく裂、彼が主催する「サンダンス映画祭」の由来はこの作品名によるものだ。

最近の洋画は原題そのまま作品が多いが、少し前の邦題はなかなか趣深い。この「明日に向って撃て」も評価が分かれるところだろうが、私は大好きである。同じ「明日」が使われている作品に「俺たちに明日はない」がある。これもまた原題は「ボニー&クライド」。こちらが先で1967年だ。「明日に向って撃て」は2年後の1969年である。ちょうど私が生まれた年であるというのもまた思い入れの一つかもしれない。

スティーブ・マックィーン主演の「ゲッタウェイ」をTV洋画劇場で観た時、映画後の名物コーナーで故淀川長治氏があのラストが意味することを語ってくれた。

映画にはいくつも約束事があって言葉ではなくそれらで語る。例えば挿入曲の題と歌詞の関係。あるいは2人の大人のシーンでの打ち寄せる波の意味。邦画ではあまり意識されていないが、画面左から右に動く事にも意味があるのだと。例えば主人公あるいは作内での正義者は左から右に向かう。敵は逆に動かす。なるほどそう言われれば「アベンジャーズ」でのいくつかのシーンもそうだ。彼らがまとまって敵に向かう時は左から右が多い。

一方でシビルウォーのようにどちらが正義かが場面によって異なったり、事前に観客に悟らせないようにする時は混在させる(と思う)。

話を戻すと「ゲッタウエイ」。逃げ切った二人がまっすぐな道をオンボロトラックで遠くに走り去るシーンで終わる。ところがそれは逃げ切ったのではなく、不文律として背を向けて消えていくのはその先の暗い未来の暗示だと淀川氏は言った。逆にこちらを向いている場合の多くはハッピーエンドなのだと。であるならば、このシーンは何かを物語っている。結末を見る人にゆだねる作品もまた趣深い。だとすると、向こうからすれ違ってくる車は何を意味するのだろう。そんなことを考え続けるのも、また映画の醍醐味の一つ。

そこで「明日に向って撃て」のラストだ。

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードは待ち受けるのが軍とも知らず、あのしつこい追手(この追手の描写をみてスピルバーグは「激突」を作ったに違いない!)ではないので逃げ切るのは楽勝と思い、互いの掛け声で出ていく。

が、一斉掃射されるその瞬間、モノクロに変わり、そこでこの映画は終わる。残るのは圧倒的な銃弾の音とファイヤーと連呼する声だけ。

逃避行を続けた2人の結末として「俺たちに明日はない」と「明日に向って撃て」のラストはあまりに対照的だ。

文字通り明日がなくなったボニー&クライド(ラストシーンはに対して、逃げ切れるわけがないという状況でありながら、画面にむかって飛び出すブッチとサンダンス・キッド。実話においても2人の生存説はある。

2年前にヒットした「俺たちに明日はない」の二番煎じとしての題意ではないと思うのだ。

配給元も彼ら2人のカッコ良さにしびれたに違いない。 そして、名匠ジョージ・ロイ・ヒル監督が意図するラストにおいて、何かの未来を感じて邦題を「明日に向って撃て」とつけたのではないかと勝手に思っている。

なお、別の意味で明日をつなげた「新・明日に向って撃て」という続編もあるが、こちらは若かりし二人を描いた作品。適うべくもないがそれほど悪くない。

本当の意味でポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの明日は「スティング」へとつながる。正真正銘、まごうことなき名作。

次回予告「ローマの休日」。

こちらも気合の入ったブログになりそうです。

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「お悩み相談室」ができました!~私からの回答第1弾~

その名も「爆裂個人塾長座談会閲覧所」という知る人ぞ知る魔境(笑)がある。

全国の個人塾長達がグループLINEに集まっていろいろなことを、それこそ昼夜問わず、塾のこと、塾生のこと、業界のこと、教育について語り合う場所だ。

その中身があまりに面白く、そしてためになるというので、一般の方も参加できるようにしたオープンチャットが「爆裂個人塾長座談会閲覧所」だ。そこは塾長達の語らいを見るだけで会話には参加できない。しかし、先日の日曜日21:00~23:00の限定イベントとして皆様からの質問を一斉に受け付けた。私は「つばめ塾」の授業が終わった直後の移動時間だったのでリアルタイムでは見れらなった部分も多かったが、少し目を離すとものすごい勢いで質問がたまっていった。現時点で参加者686人(開設数日であっという間に膨れ上がった!!)もいるのだからそれはものすごい勢いだった。

そして、今日の明け方、さらにアップデートした。登録者からの質問を受け付けることができるようになったのである。それらに対し全国各地の第一線で活躍している塾長達が本音で答える。

しかも、完・全・無・料で。どこぞの無料相談コーナーなんぞブッ飛ぶ内容で、これを見逃す手はない。いや、マジで。

https://line.me/ti/g2/AAVcJFZaGPrqIOGDvBHJcw?utm_source=invitation&utm_medium=link_copy&utm_campaign=default

おそらく保護者の方だけでなく、同業の方も多く紛れ混んでいるだろう(笑)。それほど興味深い。匿名で参加できる。ぜひとも登録して、我が子達の教育に対して多方面かつ有意義な何かを得てほしいと思う。

というわけで、早速いろいろな質問がきていている。皆さん、意識が高い。塾長達がどんどん答えているが、私の第一弾は以下の通り。

【ご質問にお答えします】

『とてもまっすぐなお子さんですね。仕事上「やめたい」といっている子をどうにか続けさせたいというご相談はたまに受けますが、その逆はあまりないです。それはそうですよね。お母さんが我々の目の前で、子供は続けたいと言ってるのに私はお宅の塾をやめさせたいのですがどうでしょう? とは言えません(笑)。ですが、このようなお悩みは多く存在していると思います。我々に届いていないだけで。

なぜなら私の子供もそうだったからです。このまま続けさせて意味があるのだろうかと思ったことは一度や二度ではありません。

ご質問のお子さんの場合、「嫌ならやめていいんだよ」の「嫌なら」ということに引っかかっているのかもしれませんね。負けた、逃げた、せっかく通わせてくれたのに申し訳ないなどなど。

きっとものすごく優しい子なんだと思います。

習い事を続けること自体に意義はあるとは思いますが、無理はいけません。子供はどんどん成長していきます。合わないこと、別の事に興味が向くこと、すべて「成長」です。

今の習い事がダメという「マイナス」の理由ではなく、他にもっと好きなことできたという「プラス」の方向でチェンジしてみてはどうでしょう。あるいはそれを見つけるための時間として、いろいろなものを見てみる時間として、少しお休みする。

前向きな方向転換です。

うちの子もいろいろな習い事を変えた時期がありました。ですが、中学生になった今、自分で見つけてきたダンス教室に楽しそうに通い続けています。最長記録です。

親として結果も気になりますが、何より楽しそうに通ってくれることが一番ですよね!!

いつかお子さんにあった「何か」が向こうからやってくるかもしれません。

大丈夫です!! 前向きに探ってきましょう』

皆様もぜひ。楽しく、かつためになること間違いない。

そして、スマホから離れられない子供達の気持ちがよ~くわかるようになるのだったw ←ここ数日で得た一番大きい気づきである。

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私が無料塾を続ける理由

毎週日曜日19:00~21:00で無料塾「淵野辺つばめ塾」のお手伝いをしている。おそらく、有料塾それも個人塾経営者でありながら無料塾講師として毎週授業をしているのは珍しいのではないだろうか。

その理由を話したいと思う。3つある。いつもながら長文であるから、もしかったるいというのであれば最後の3つ目だけでもぜひ目を通していただきたい。皆さんの生活、子供達の未来に直結する話だから。

1つは「恩返し」だ。塾を運営するのに本当に多くの方々にお世話になった。特に現大家さんである青木様ご夫妻は人生の恩人である。

もちろん塾運営だけでなく、生きていく上で様々な方にご支援いただいた。もちろん一人一人にいつかきちんを恩返しをしなくてはいけない。が、私をご支援していただいた方々は本当に志と徳が高い。お礼などいいから、塾の子供達や地域、社会のために働いてくれとおっしゃる。直接のお礼を差し上げたいがなかなか受け取ってくれない。そこで、塾生に対し全力を注ぐことはもちろん、何か社会貢献はできないだろうかと常に考えていた。そこで出会ったのが小宮先生であった。

理由の2つ目は前述した小宮先生との出会いである。彼は一から、そして独りで八王子つばめ塾を立ち上げた。

ボランティア活動を探していたわけではないが、いろいろと調べていくうちにたまたまその「八王子つばめ塾」が目にとまった。それまでは無料塾という存在は知ってはいたが、深く思うこともなくそういう活動をしている人もいるんだな程度の認識だった。

それなのになぜかこの小宮先生の活動に引きつけられた。ホームページにつづられる彼の言葉に嘘偽りはない。

すぐにアポを取り、お会いしていただいた。私よりずっとお若いが本当にエネルギッシュな方で私達夫婦ともにファンになった。八王子まで授業をしに行くことも可能であったが、小宮先生の計らいでこの相模原近辺で授業ができるようにと「淵野辺つばめ塾」を開塾することになった。場所は(株)カキザワ工務店/カキザワホームズの柿澤会長のご厚意でそのモデルルームを無償で貸し出してくれている。

https://www.kakizawa-sc.co.jp/

その他にも無料で野菜やパンを差し入れてくださるNPOなど地域全体で子供達を支えている。様々な方々のご理解ご協力があって成り立っているのだ。

なお、小宮先生は私立高校や大学の教員、あるいはアルバイトをしながらご家族を養っている。

そんな方々の一員になれること自体が喜びでもある。

そして、3つ目。実はこれは当初から思っていたことではない。つばめ塾の一員となり、貧困の現実やいろいろなことを学び、様々な人々と出会うことで徐々に芽生えてきたものだ。がしかし、今では無料塾を続ける最大の理由となっている。

それは、貧困問題に限らず社会はすべてつながっている、ということだ。

「自己責任論」は確かに一理ある。が、これだけ社会が複雑化し、様々なものが密接に結びつく現代において、自分だけが幸福になるなんていうことはもう有り得ないのだ。それは見えていないだけで、実は確実に我々のすぐそばまで来ている。

貧困問題は社会問題と直結する。

貧困の最大の問題は自己否定感の増大だ。自分の存在価値を認めることができない。すると自暴自棄になり、最悪の場合、犯罪に結びつく。詐欺や麻薬、性犯罪、それは私達にとって決して遠い世界の事ではない。日々あふれるように報道される現実をみれば一目瞭然であり実感もできるだろう。

自分や我が子がそれらの犯罪や詐欺の被害者になる可能性もある。そんな話はゴロゴロそこらへんに転がっているではないか。そう考えれば他人事ではない。また、犯罪者を捕まえることや刑務所の維持などもすべて税金だ。さらに生活保護などの社会保障費は当然のことながら国民全体の負担となる。

日本国内だけにとどまらない。世界でおこる戦争や紛争の根底要因は貧困である。自衛隊の派遣問題はもちろん、それだけでなくもはや世界情勢において日本は関係ないとは言い切れない。ODAもまた我々の税金である。また、火の粉が直接降ってこないという保証はどこにもない。北朝鮮を支援せよとは微塵も思わないが、北朝鮮の貧しさと日本の危機は密接に関係している。

消費税増税で世間は大騒ぎとなっているが、ますますその負担が増える要因が目の前にあることに気がついていない。いや、見ようとしていない。

何よりもだ。何よりも、誰だってその立場になり得るのだ。

会社の倒産や交通事故など、いつなにがどこで起こるかわからない。いや、もっと身近で頻繁に起こり得る事例を挙げれば自然災害だろう。地震大国であることはもちろん、台風の恐怖にさらされ続けた今年の夏の教訓は忘れてはならない。誰もがその災害を受ける可能性があるのだ。

そして、被害者から加害者になることを否定することは誰にもできない。

それらを自己責任で片づけることができるだろうか。

無料塾を続けるなんてよほど本業の塾が儲かっているのだろうと思われる方もいるだろうが、そんなことはない。むしろカッツカツのカッツカツだ。

マザーテレサは「100人の子に食べ物を与えられなくても1人にならできるでしょ」と説いた。裕福になってから活動するのであれば、たぶん私は一生なにもできないだろう。

決して大げさではなく、貧困問題や社会問題に向き合うことが、私達の家族の幸福や慶翔ゼミナールの塾生の幸せにつながると本気で信じている。

無料塾に集う子供達が元気に活動し、世の中に巣立っていけば、それは巡り巡って私達へと何かが循環するであろう。

よく「無料なんて、何かウラがあるんでしょう」と言われる。当然といえば当然のご意見だ。だが、金銭的な見返りは一銭もない。むしろ出ていく一方である。ウラがあるとすれば、上記の「情けは人のためならず」という下心(笑)だろうか。

やる気の搾取と言われようがなんだろうが、子供達と保護者の心からのありがとうとの感謝の言葉は何物にも代えがたい。私達夫婦はその宝物に出会えることに幸福を感じている。雑音はまったく気にならない。

幸いにも慶翔ゼミナール塾生保護者から「何やってんの」という言葉をいただいことは一度もない。むしろ、使わなくなったテキストや雑巾、鉛筆などご支援いただいている。本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。塾生も保護者の素晴らしい人ばかりだ。

私を支援することが無料塾の子供達、いや未来の社会と子供達を支援することであり、それはやがては皆さんの幸福へとつながっていく。いや、そうすることが私の使命だと思っている。

これからもあたたかい目で見守っていただけたらと思う。

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脱糞について。

今週末、私は2つのことで苦悩した。いや、懊悩、煩悶といっていい。

だが、生き様を見せることが弊ブログを再開した理由であるのであれば、心の奥底をさらけ出すこともまた使命ではあるまいかと、今からここにその詳細を陳述する。

1つはK奈子さんに真実を伝えるか伝えまいか、ということ。昨日深夜にもツイートしたが、彼女は昨日ヤラかした。ヤラしかったではない。ミスったということである。

皆さんのご家庭ではどのような処理をされているかわからないが、揚げ油を捨てる際、固めるテンプル系の油の凝固剤があればいいのだが、ない時にはコンビニ袋を二重三重にしてそこに流し込む。これぞ燃やせるゴミである。

ところが昨夜その作業の途中、盛大にぶちかましてしまった。台所の床や引き出しの中まで油まみれ、キッチンカーペットはオシャカである。K奈子さんの落ち込みようは可哀そうなくらいであった。他の人なら何やってんだっ!って怒るところを慰めてくれるから優しいね、とも言う。

違うのだよ、K奈子さん。慰めているのではなく、ついに君も我々の仲間入りなのかと感慨深くなっているだけなのだ。むしろ、おおっK奈子もお前もか、といとおしくなったのだ。油を盛大にこぼしたのはたまたまでも不注意でもなんでもなく、それは必然なのである。

なぜか。それは加齢とともにくる、身体機能の衰えの現れだからだ。頭がこう動けといっても体が言うことをきかなくなってくる時が必ずくる。今年40歳になった君はいよいよその時を迎えたのだ。頭の中では常に20代と思っているだろうが、現実は甘くない。まっすぐに偽りのない目で、鏡に映る自分を見つめ直せ。

実にこれは大切なことなのだ。この自覚がないと悲劇をもたらす。越えられると思ってジャンプした壁に足をとられてすっころぶ。すっころぶだけならまだいい。越えようとした壁に足をかけ、その足が滑ってその壁に股間から落ちてでもしてみろ。女性の君にはわからん恐怖だろうが、これは痛い。死ぬより痛いかもしれない。考えただけでも背筋が凍る。

真面目にいうと自損事故だけならまだいい。例えば車を運転していいる時だ。自分の感覚とその信号伝達のスピードや正確性が劣っていると自覚しないままイケると思って事故ったらどうする。他人様まで巻き込むことになる。

そして何より、その自覚と普段からの用意周到さがなければ人間の尊厳を根底から汚す事態となるのだ。その危険性がついに君に出てきたのである。だが、まだ40代の麗しき女性であり4人の子の母である。一番下の子はまだ中1であり、皆がママ、ママと慕う日々だ。なかなか現実と迫りくる未来を受け入れられないだろう。

がしかし、だからこそ心を鬼にして君に伝えることにした。どうしようかと迷っていたが、私の実体験をもとに君に警告する。今から耳をかっぼじって、目を皿のようにして私の話を聞き給え。

ということで、1つめの苦悩はクリアした。2つ目である。

それは今ブログの題名だ。賢明なる読者諸君はもうすでにこの後のおおまかな流れをつかんでいることであろう。よって、どのような描写が流れてくるか見当がついているに違いない。

そこで改めて題名に戻る。「脱糞について。」である。

うららかな日曜の午後、それも天皇陛下のパレード当日にこのような言葉を羅列して不敬罪でとっ捕まっても仕方ないが、事態は緊急を要する。よって何卒おおらかな気持ちで読み進めていただきたい。

どのように表現すべきであろうか。すでに昨夜から12時間は悩み続けている。子供達のように「おもらし」という歳ではない。「粗相」では物事の本質、重大性、緊急性が曲解して伝わる恐れがある。ちまたにあふれるように「うんこ」では何か負けたような気がする。「ウンチ」は犬の散歩をしているおっちゃんみたいで癪に障る。同様に「フン」では塾で飼っているピラニア達と同列になりそうで嫌だ。まさかいい大人が「クソクソクソ」と連発するわけにもいくまい。

よって、漢語調も格式高く「脱糞」と表記することにしたが、いかがであろうか。漢字の読めない小学生のために読み仮名を記すと「だっぷん」である。可愛らしくもまた哀愁漂ういい語感だと思う。

というわけで、2つの苦悩を無事取り除くことができたのでいよいよここからが本文である。ここからは迷いなく一気に書ける。いつものようにクソ長い前置きであったがご容赦いただきたい。

生き様を見せるのが我が仕事の本質である。

人生には光もあれば闇もある。あのレディーガガは「影があるということは、あなたに光が当たっているっていうことなのよ」と説いた。けだし名言である。ちまたを見れば、まぶしく輝く光があふれている。スポットライトは彼らに任せよう。私はあえて影になろう。よって今から述べることは、決してウケ狙いでも、自分で書いていてちょっと面白くなって調子に乗って書いているのではない。苦渋の決断である。

先日、うんこが出た。

人間だからうんこが出るのは当たり前である。どんな素敵な女優であっても、世界を動かす指導者だってうんこはする。が、人間の尊厳としてそれはトイレでするものだ。

がしかし、身体のすべてをコントールしていると思うのは傲慢である。ときに体はその意志とは関係なく緊急サインを送っていくることがある。通勤通学の最中はもちろん、熱く語っている授業中、今日はキメるぞと燃える食事中、それはいつ来るかわからない。誰もが冷や汗を流した経験を持ったことはあるだろう。そこから人間の威厳をかけた戦いが始まる。しかし、現代においてトイレがないということはないのでよほどのことがない限りこの勝負は勝つ。仮にトイレにない山奥であったとしても、逆にそれは人は人間である前に生き物であるのだから、男子は雉撃ちに、女子はお花畑へとちょっと時間をもらえれば済む。

が、意識しているうちはいいのだ。思いもかけず、予測しないところから災いはやってくる。

思えば、私の体は50年も毎日同じ作業を続けてきた。目は常に見続け、口は食べ続けてきた。そして、肛門はその開け閉めを50年間繰り返してきたのである。最近、我が塾のトイレのシャワーパイプから水漏れがし始めた。パッキンだって15年も使用し続けていれば劣化する。それが50年である。ときには思わずということもあろう。

仕事柄、日中の大半はデスクの前に座ってパソコンをうつか、問題を解いたり解説を書いたりしている。そこで屁をかました。幸いにもK奈子さんはネイルに行っていていない。思うがままにかましても悪臭被害は自分のみだ。遠慮することは何もない。

その放屁がまた実に乾いた心地良い屁であった。そこにヤツがきた。1発目はフェイクだったのである。くっと下っ腹に力を入れ、右の尻を心持ち上げ、2発目をかます予定だった。

が、そこで出た。

あっと声も出た。

笑うなら笑えばいい。いや、きっと私と同年代またはそれ以上の方はおおいにうなずかれていることであろう。俺もやったことがあると。

そして、ここからが難しい。結構、出たのである。知らぬふりをしてそのまま座り続ければ悲劇がさらに悲劇を呼び、椅子までもに甚大なる被害を及ぼすであろう。そっと立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。ちょっとガニ股である。幸いにも事務所のすぐ隣がトイレであるが、そのまま10歩ほど先の風呂場に行くべきか、数秒悩んだ末に風呂場に駆け込んだ。

身を清めながら、さてパンツはどうしようと思った。このまま風呂場で洗って隣の洗濯機にぶち込むか、あるいはお役御免とビニール袋に入れ厳重に封をし闇に葬るか。幸いにも我が夫婦間で朝つけた下着と夜が違うなんてことを気にする文化も、数をチェックしたりする習慣もないのでそこは心配いらない。要はこの洗濯機に、風呂場で半べそかきながら洗ったパパンツを入れていいのかどうかを悩んだのである。ゴシゴシと洗ったとはいえ、汚染された我がパパンツが家族に何らかの被害を与えたらと思うとまた涙が出てくるのである。信じてもらえないだろうが、高1と中2になる娘たちはいまだパパといって抱きついてくる。私の着ているパーカーやスウェットなどむしろ喜んできてくれる。それもこれもすべてはK奈子さんが常に私を持ち上げてくれるおかげだが、この事件が発覚したら彼女たちはどうなるだろう。彼女たちの信頼を無にすることはできない。物は大切にしなさいという母の教えを裏切ることになるが、ここは家族の健康と絆を第一とした。

長々と書き綴ったが、我が身体をいつまでも信じ切ることは危険である。

何十年もその役目を文句ひとつ言わず続けていた身体の機能をいたわりつつ、いつその災害が訪れてもいいように高尚なる精神を持たねばならない。

K奈子さんにもついにその時が来たのである。昨夜のヤラかしは、むしろこれはチャンスであり、新たな自分を創り出すいいきっかけとなるであろう。が、まさかあの佳奈子先生が「うんこが出ちゃった」となってはいけないので、愛をもって私が犠牲となってここにその詳細を記したのである。

と、だいぶ長く書き綴っていたので、屁が出そうである。かの孔子もその論語で「過ちて改めざるを是を過ちという」と言っていた。

ちょっとトイレに行ってきます。

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君たちの人生はこれからだ。

残された時間をより身近にそして具体的に感じるためのたとえは、世の中にいろいろと語り継がれている。

例えば、公立入試まであと100日をきった。100日をどうとらえるか、どう危機感をもってより取り組むかを大人達は例をもって君たちに示す。

100日後を意識するには100日前を思い出せ、100日前の君と今の君は何が違うのか。今のままなら100日後の君は今の君と変わらない。

100日を5科で割れば1科目あたり20日。社会や理科などは単元がさらに細分化するから、たとえば地理・歴史・公民の3で割れば1単元に約6日。そのくらいの時間しか残されていないのだ。

などなど。塾や学校の先生がよく使うたとえ話なので一度はどこかで聞いたことがあるだろう。

おっかないものでは「世界終末時計」も知られている。2019年初めに示した時計は、東西冷戦時と同じ終末2分前だそうだ。平和な日本で暮らしていると実感はわかないが、ノーベル賞受賞者も参加しての協議会なのだそうで、核だけでなく環境問題や経済危機など世界は危機に満ちあふれている。

人生の残された時間を、年数ではなく日にちや時間で計算し直して、例えば残された食事の回数はあと何回だとか私のように50を過ぎた人間にとっては結構ビビる数字もある。

スティーブジョブ氏は、毎日を最後の1日と思って生きていると語った。

そこでだ――――。

現代の日本では平均寿命は80歳といわれている。これを1日の時計にしてみよう。午前0時がその日のスタートであり、24時間で1日は終わる。これを80歳に割り当てると、40歳は正午であるから今年50歳になった私は現在午後の3時。ランチを終え午後の仕事にとりかかり、一日の終わりが見えてきたころ。定時17時で仕事を終え、これから街へ繰り出す、あるいは暖かい家族の待つ家に帰る。それも人生だが、私の生き方であればこれからが本当の山場となる。塾でいえばまさししくこれからが大仕事の時間帯だ。 ワクワクするねぇ!!

君たちはどうだろう。20歳になったその時、一日の時間でいえば午前6時。まだ6時か、もう6時か。そのとらえ方は人によって違うだろう。

あまり早く起きすぎても疲れちゃう。途中で眠くなって、お日様が照りつける気持ちのいい時間にお昼寝なんてもったいない。まあ、それも気持ちがいいもんだけどね。

10歳なんて朝の3時。というか、まだ夜だ。寝る子は育つ。しっかり寝ることも大切だ。無理矢理叩き起こされて朝の3時にあれやこれやも大変だなとは思う。

では、15歳の君は何時だろうか。午前4時30分だ。まだまだ眠い。が、早起きしているヤツは世の中にいっぱいいる。早く起きればそれだけ一日を有効に使える。そろそろ始発の発車時刻だ。世界が動き出す。私達もちょうど朝塾を始めるころ。

さて、一日の始まりだ。朝陽がまぶしい。

外に出て、世界の新鮮な空気を目一杯吸い込んで、いよいよこれからと飛び出していけばいい。

まず、顔を洗え。目を覚ませ。

一日をどう使うか、人生をどう生きるか。今日という日が始まる。

君たちの人生はこれからだ。

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魅惑の南欧ビーチ

オカマ襲撃事件の前々日、私はニースにいた。

ニースといえば、コート・ダジュールを代表する南ヨーロッパ最高のリゾート地である。

バックパッカーであるということは、どこへ行くにも上はTシャツ、下はジーパンであり、はっきりいって金もない。世界を代表する富豪が集まるニースからモナコにかけてのこれぞ地中海といった街並みやビーチを散策するには少々似つかわしくない。というか、だいぶ場違いだ。

では、なぜニースに向かったのかというと、それまで海といえば湘南というちょっと濁った海岸しか知らなった島国の一青年が、列車から見ても泳いでいる魚が見えるという青く透き通った海を満喫したいから・・・ではなく、言うまでもなくトップレス鑑賞のためである。

しかも、パツキンの美女。

小さな頃に「がいこくのうみって、みずぎをつけないでおよぐんだよ」と海外勤務の長い父が酔った勢いでポロっと漏らした。その頃は芸能人水泳大会がテレビを賑わしており、お楽しみはポロっとであった。きっと酔った父とそんな番組を見ながら交わした会話だったと記憶する。幼心になんてハレンチなところがあるのだろうと思ったが、 日々すくすくと健全な成長をとげていた少年だったので、翌日にはなんて素敵なパラダイスだろうかこの世の極楽に違いないと、もし大人になって海外へ行くことがあったら真っ先に訪れる場所にしようと心に強く決めていた。

本当のことを言えば、ワールドカップ観戦やF1の爆音をじかに感じたいなども隠れ蓑である。いかにして金髪美女と出会うか。これに尽きる。ついにこの日が訪れたのだと前日は鼻血がポロっと出た。

マルセイユからカンヌ、そしてニースへと向かう列車からの景色は絶景で、真っ白な砂浜と透き通った青い海、そこになぜだか真っ白な素肌と透き通った青い瞳とが重なり合い、ほぼ錯乱の一歩手前であった。素通りするヤツの気がしれない。

そして、青年はついに魅惑の地に降り立ったのである。

そこはまぎれもないリゾート地であった。まずは腹ごしらえとしてリゾートならではの最高級フレンチへと思ったが金がないので、中華に入った。中華は偉大である。ヨーロッパのどこの街へ行ってもある。しかも、安くて味もまず外さない。フランス語は読めないがメニューをみればなんとなく察しがつくのも良い。マルセイユのビストロではなんだかよくわからないので「ステーキ」と書いてあるっぽいものを指さしたら、あろうことか生肉のみじん切りの塊が出てきた記憶も新しいので、ここは安パイに落ち着いた。思えばあれはタルタルステーキだったのだと気づくはのちの事である。

ランチを終えて準備万端、いよいよ戦闘開始である。ビーチはすぐそこだ。ガン見しすぎて通報、その後異国の地で牢獄行きなど親不幸にもほどがあるので、一応サングラスは持ってきた。

ところが、である。

いない。真っ白な砂浜に真っ白な素肌の美女はわんさかいる。が、しかし肝心のトップレスの方々がいないのだ。なるほど、さすがにニースではなくもう少し離れたあまり人目のつかないところが穴場なのかとうろちょろと歩き回ったが、ターゲットは捕捉できない。

陽射しは突き刺すように降りそそぐ。ちょっと歩いただけで両腕は真っ赤に日焼けしていた。

まあこれも仕方ないよな、と腰を下ろした。しかしよくよく考えれば、私が好きなのは「隠しの美学」である。多くの男性読者の方々のグングンとうなづく姿が目に浮かぶが、実はモロより見えるか見えないかくらいが最も血圧が上がる。下着を盗むヤツの気は知れないが、それを着ている女性を見るのは実に高尚な精神の表れである。想像力こそ神が人間に与えたもうた最も高貴なものである。と同時にまた罪深い。

そう思えば、そこは楽園であった。ビキニ姿の麗しき金髪女性たちが右を向いても左を向いてもあちらこちらから目に飛び込んでくる。絶景であった。それもまた素晴らしいとどこまでも青く続く地中海の水平線を見つめようとしたその時、すぐ目の前を何かが通り過ぎた。

金髪の美女軍団ならぬ白髪の熟女軍団であった。いや、正確にはおばあちゃん達である。

あろうことかトップレスであった。

ついに見てしまった。見てはいけないものを見てしまった。確かにパツキンであったが、熟女も熟女、熟々女である。しかも集団である。正確にはおばあちゃんである。昔、母親に連れていったもらった銭湯での記憶が鮮やかによみがえる。そこにはいつもおばあちゃん達がいた。

なぜに彼女らは正々堂々を歩くのであろうか。今であれば、うんうん我もまたそう也とうなづくこともできよう。そして、それは老いを迎えつつある私の心の中で美しくも映えるであろう。ただ、当時の私は21歳の青年である。落胆はすさまじいものであった。ちょっと泣いた。涙がポロっと出た。別の意味で網膜に焼きついた。

仕方がないのでビールを飲んでそのまま砂浜で寝た。今後も目に飛び込んでくるのが熟女軍団であればトラウマ化する恐れもあるので、うつぶせになってすべてを忘れるように眠りについた。

絶好の海水浴日和である。明日はいよいよ開催国イタリアに入るのだと我を落ち着かせた。

どのくらい眠っただろうか―――。その後、夕方になって飛び起きたら、背中が妙に熱い。あまりにも熱すぎて触ると痛い。南フランスの直射日光を甘く見ていた。日焼けどころではない。はっきりいってヤケドである。シャツすら着られない。観光地なのでクッソ高いB&Bでシャワーを浴びて一人絶叫し、夜は痛くて眠れなかった。

天罰が下ったのである。夜は一人シクシクと泣いた。なぜだか、もうしません、ごめんなさいとつぶやいていた。熟女、いやおばあちゃんと地中海を甘くみた罰だ。熟女の呪いである。海より深く反省した。

それ以来、決して熟女から目を背けることなく、むしろその時の「反省」を活かし勤務時代は「熟女キラー」の名を欲しいままにしたのである。

人生は失敗の連続であり、思うようにはいかない。だが、それを活かすも殺すもまたその人次第なのである。

と、私がなぜにこのような体験を赤裸々に語ったのかというと決してウケを狙ったわけでも、てめぇで書いていてあまりにも面白いので調子に乗ってあることあることを書きつづった訳でも、決してない。この高貴なる理想が言いたいがために、教育者としてのプライドを投げ捨てあえて泥水をかぶったのだということをぜひご理解いただきたく、ここに筆を置く。

予告。超大便…失礼、超大作「脱糞について」近日公開予定――――。

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