ミラノ、オカマ襲撃事件

このご時世、オカマなどという表記をしたら百叩きの刑に処されるのも仕方ないが、なにせ30年近く前の出来事であり、かつその様子を克明に記さねばならぬ義務感により当時の感想のままつづることをどうかご容赦いただきたい。

さて、ヘルメットをかぶるのが嫌で野球をやめた鈴木少年は、その後見事にサッカーにハマった。(※なぜにヘルメットが憎いのかについての詳細は弊ブログ「あだ名歴」参照の事)

すっかりラグビー熱で列島が染まってしまったので、サッカーもまた負けず劣らず素晴らしいということをアピールしなくてはいけない。来週には今年最後のW杯予選があり、浦和レッズは2年ぶりのアジアチャンピオンに臨む。が、まずその前に念願のワールドカップへ現地初観戦に行ったときのことを記さねばなるまい。

1990年、イタリア・ワールドカップ。カルチョの国。

すでに21歳となっていた私は、塾のバイト講師としても順調な日々を過ごしていたが、どうしてもワールドカップをナマで観たくなった。ナマという響きに弱いお年頃である。一度その誘惑にハマったらもう抜け出せない。しかも大学生活も残りあとわずかであるから、今ここで旅立たねば社会人になってから何ヶ月も休むことなんてできるはずがない、と思い強引に日程を空けた。

さらにはアイルトン・セナを愛していたのでF1観戦も目論んだ。イギリスからフランス、さらにはイタリア、ドイツなどヨーロッパ各国を巡るバックパッカーの旅だ。実に素晴らしいではないか。

都合のいいことに塾講師の先輩であったI田氏がJTBに内定をもらっていたので、いいからいいから俺に任せろというので飛行機は一任した。結果、行きの航空便は格安の大韓航空となった。JTBのコネもたいしたことないなと思った。

さて、そんなこんなで計画は進み、6月に出発、帰りは9月、3ヶ月間で欧州主要国を巡るという壮大なプランが出来上がった。いや正確には決まっていたのは行きと帰りの日にちだけであって、ルートはおろか宿泊場所の一つも決めずに気が付いたら成田にいた。実に男らしい旅立ちであった。

がしかし、結果的には3ヶ月の予定が1ヶ月となり、塾生には「夏休み明けの2学期に会おう(キリッ)」といったはずなのに、なぜか夏期講習会初日から授業をしていた。なぜにそんなにも予定が短縮されたかというと、涙なくして(無論、笑いの涙である)語れないが、端的にいうとパクられた。

現金はもちろん、トラベラーズチェックも、パスポートも、着替えも、帰りの航空券も、寝袋の収納袋もパクられた。残ったのはポケットの中の小銭としまう袋をなくした寝袋だけである。よって、どこにいくにもその寝袋をズルズルと引きずりながらイタリアの街をさまようこととなった。

まだ麗しき青年だった私が、あろうことか本場のオカマに襲撃されたのは、そんな絶望の淵に立たされる前の、まだ希望に満ち溢れた初夏のミラノ駅。南欧とはいえ、まだ肌寒い夜の出来事であった。

ロンドンやパリの地下鉄は日本と同じようにすでに自動改札であったが、長距離を走る列車にはそのまま直接乗り込む。銀河鉄道999のように様々な列車が発車待機しているプラットフォームは壮観で、しかもすぐ横まで出入りできるのは素晴らしい。さすがにミラノは大都市だけあって、多くの旅人達がホームに入り乱れる。

私のようなバックパッカーも多い。いわゆるリュックサック1つで各国を渡り歩く貧乏旅行者達だ。

彼らはB&Bと呼ばれる簡易民宿(Bed and Breakfast、つまり簡単な朝食と寝るだけの宿泊場所。というかそこらへんにある民家)に泊まるか、または列車の移動で宿泊を兼ねる。起きれば次の街であり、日本でいう青春18キップのようなものは各種あるので、それを使えば貴重な宿泊代も節約できるというわけだ。

そして、次の列車を待つグループは自然と輪になり、今まで渡ってきた都市の情報交換をしたりこれからの壮大な旅路を夢見ながらいつまでも語り明かす。私もその輪に入りいろいろと交流をしていたが、やがて眠くなってきた。

次の列車は早朝の出発なのでそのままゴロ寝をした。まわりは20人ほど男女入り乱れた各国の若者たちだ。まあちょっとのうたた寝くらい大丈夫だろうと横になった。各国の言語が交じり合う彼らの語り合いは心地よいBGMのようだった。すうっと眠りに落ちた。

それからどのくらいたっただろうか。

深夜から明け方というのに、妙に騒がしい。笑い声も聞こえる。

ヨーロッパは偏西風と西岸海洋性気候のおかげで暖かいが、それでもミラノの緯度は北海道・稚内とほぼ同じ。陽が沈むと初夏とはいえまだ肌寒い。寝るときは寝袋にずっぽりと入り、武士のたしなみとして当然のように左腕を下にして寝ていた。

ところが、なぜか右耳(上にしている)だけが妙に生暖かい。

しかも、だ・ん・ぞ・く・て・き・に、ナマ暖かい。

より具体的な擬音を加えるならば、ハァ(暖)・すぅ(寒)・ ハァア(暖)・すぅ(寒)・ はぁああぁ(暖)・ すぅ(寒) ・はぁ~ん💛(暖)といった感じであろうか。なぜだが、かすかなうめき声も入り乱れている。面妖である。

徐々に眠りから覚醒してきた私はその異変さに気付くと同時に、何か下半身にも違和感を感じ始めた。ケツのあたりに何かが押し付けられているようだ。こう、なんというか、押し込まれるというか、突き刺さるというか、グイグイと何かが私の肛門めがけて突進してくるのである。まわりのバックパッカー達の笑い声も徐々に大きくなっていく。

嫌な予感がする。するのだが、怖い。背中がゾクゾクする。

が、しかし、このままではいけない。異国の地にきて笑われっぱなしでは日本男児として同胞の武士の方々に顔向けできない。そこで思い切って顔を向けた。

するとそこには、目と口を半開きにし、恍惚の表情を浮かべた無精ひげのイタリア野郎がいた。

うかつであった。寝ころがった状態で首だけそちらに向けたものだから、モロ至近距離で彼を見てしまった。危なく口づけをかわすところだった。ヤツはぴたっと私の背後から寝袋ごしに寄り添っていたのである。口は私の耳元に、下半身は私のケツにぴったりと。

「おおっっっ!」をうなり声を上げて立ち上がり、すかさずサッカーキックをお見舞いした。長渕剛主演の「とんぼ」放送後であったら間違いなく長渕キックをお見舞いしたことであろう。

いま思えばそれが間違いであった。かかとの裏で相手をなぎ倒す長渕キックであれば、あるいは踏みつけるようにしてヤツを叩きのめすことができたのかもしれない。が、サッカー部主将であり、そこはカルチョの国イタリアであり、時はまさしくW杯で盛り上がる日々であるから、大会でメキメキと頭角を現していたスキラッチよろしく弾丸シュートをかますべくインフロントキックをお見舞いした。すると当然のことながら物理的法則によりヤツはゴロゴロと転がる。

ひげ面イタリア野郎は下半身丸出しであった。

しかもそのブツを我がケツに押しつけていたのであるから、当然のごとくそのモノはそれらしくなっており、それがヤツの回転とともに、ブツ→ケツ→ブツ→ケツと公衆の面前のもとに露わとなったのである。

大歓声が起きた。爆笑である。笑い声は各国共通であることを知った。

が、イタリア野郎もめげない。回転が収まるとすくっと立ち上がり、あろうことか「へへっ、へへっ」と薄ら笑いを浮かべてまたしても近寄ってきたのである。敵ながら見上げた根性であった。

がしかし、異国の地でまさか貞操を失うわけにはいかない。日本語で「バカヤローっ!」と叫びながらヤツのブツめがけてプラティニばりのボレーシュートをかました。

ヤツは地獄の痛さであったのだろう。今度は泣きながら去っていった。現場にはヤツのズボンが残されていた。

観衆は大盛り上がりである。拍手が起きていた。私も手を振って応えた。その後、別の若者が寄ってきて、まさか今度はこいつかよと思ったが、優しい笑顔を浮かべながらこれをあげると自分の着ていた上着をくれた。なにやら文字を書いていたが、右から左へニョロニョロとアラビア文字を書いていたのでおそらく中東の国の人だったと思う。よくわからないままいただいた。その上着は旅行バッグの中に大切にしまっておいたが、のちのパクられ事件でそれも紛失することになる。彼は今どこで何をしているのだろう。

騒ぎも落ち着き、始発の列車が動き出した。朝陽がまぶしい。

私の次の目的地は水の都ベネツィアだ。どうしても行きたかった場所の一つだ。希望を胸に抱いて列車に乗り込んだ。

が、その列車の中で前述の事件が起こる。ベネツィアは涙の都となったのである。

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投稿者: keishoseminar

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