胡坐をかく、とは。

人はそのルーツを探りたくなる。はたして己は何者なのかと―――。

日々の送迎中の密かな楽しみはDVD鑑賞である。つい先日まで壮大なるMCUをじっくりとイチから見直していた。「アイアンマン」から「エンドゲーム」まで3000回泣いた。

そして、今はふたたび大河ドラマ「龍馬伝」である。

見慣れている時代劇であるが、先日ふと疑問が浮かんだ。なぜにこの人たちは、胡坐をかき、正座をするのだろうかと。

というのも、私はどちらもあまり得意ではない。外食の時に「お座敷にどうぞ」と言われても、椅子の席が空いていればそちらを希望する。まれにみる体の硬さが原因という説もあるが、胡坐にせよ正座にせよ、一度座ってしまうとなかなか腰を上げにくい。とくに食事の時は前かがみになるせいか、胃が圧迫されて少し食べづらい。せっかくの美味しい食事が何かもったいない気がするのだ。さらにいえば、靴を脱ぐことで異臭攻撃をモロにくらう危険性がある。また、私のオイニイで周辺の方々を気絶寸前まで追い込むことも本意ではない。こうなると、美味しい食事が台無しどころではない。

以上、諸般の事由により、どうしたって椅子の方が楽である。また機能的・合理的、かつ周りに優しい。

確かに昔は胡坐と正座が一般的だった。これは日本だけでなく、ヨーロッパを除くほぼ全世界での現象らしい。が、しかし、現代ではどこもかしこも椅子だ。つまり、人類は床座より椅子座を選択したのである。その証拠に集中と継続が必要な学習姿勢において、学校だろうが塾だろうがうちは胡坐で授業を受けてもらいます、というところはごく少数だろう。

それなのになぜ人類は床に座り、また現代人の多くはそれを捨て椅子を手にしたのであろうか。

矢田部英正氏の著作「坐の文明論~人はどのようにすわってきたか」によると、『この世の唯一の神が天空に存在するという民俗と、 床に座り瞑想し様々な場所に宿る神の声に耳を傾けてきた民俗との違いではないか』と指摘する。

であるならば、現代の日本人はやはり神々を恐れぬ精神を持とうとしているのかもしれない。いずれにせよ、以下に私が述べる俗な話に比べると、なんと高尚な説であろうか。今ブログの結末と比較すると己のアホさ加減が浮き彫りになっていたたまれなくなる。が、もちろんこのまま続行する。

さて、我が足の強烈な臭さをもカミングアウトしつつも、なぜにこんな話をしているのかというと、胡坐をかくこと自体をうんぬん言いたいわけではない。

「あぐら」はなぜに「胡坐」であるのか、ということなのである。

普通は読めない。

読んでも「こざ」であろう。実際、広辞苑をひくと「こざ(胡座)」で出てくる。意味はまるっきりそのままの「あぐらを組むこと。あぐら。」と出てくるのでガッカリ感はこれまた半端ない。広辞苑を出したついでに「あぐら」をひくと、「(『あ』は足、『くら』は座の意)~略~足を組んで座ること。」とある。もちろん漢字は「胡坐・胡座」である。

足を組むのであれば、なぜ「足組」または「足坐」ではないのであろうか。そのほうが「あ」という音から容易に想像できる。漢字は表意文字であるのであれば、我が主張は正しい。が、「胡坐」である。この「胡坐」の「胡」はどこから湧いて出てきたのであろうか。

こうして辞書の旅が始まった。

次は「胡」である。きっと足に関係する何かの記述があるのかと思えば、あろうことか一文字も出てこない。出てこないどころか、謎は深まるばかりだ。以下に記す。なお、広辞苑・第三版である。

「(呉音はゴ)①中国で、夷狄(いてき)の略。秦・漢代には匈奴、唐代には広く西域民族を指す。→五胡。②一般に異民族・外国を指し、外来のものに冠する語。「ー弓」「ー麻(ごま)」

なんだろうか、これは。足のあの字も出てこないではないか。というより、漢字発祥の漢民族からみれば蔑称である。つまり、これは卑しい異民族の座り方、ということなのではないだろうか。

先のブログでは「三国志」の話をした。実に意外なことであるが、中国ではあぐらをかく習慣はあまりないらしい。彼らは椅子である。確かに野戦の描写は仕方ないにしても、中国の食事風景などはみな椅子座であることが多い。ところが、女真族による清帝国では皇帝があぐらをかく写真も残っている。

なるほど、確かに草原を移動しながら生活する蒙古の民にとって地べたにすわることこそ合理的であるに違いない。いちいち椅子などを持ち運んでは邪魔になるだけだ。

日本人は農耕民族でありながら、また一方でその起源をアジア北方の騎馬民族とする説もある。確かに中国語とは発音も文法もほど遠い。また、前述の女真族の象徴である辮髪もまた、侍時代のチョンマゲに通ずるものを感じる。

我ら祖先はどこから来たのであろうか。

何気ない日常の所作にこそ、そのDNAが刻まれているのかもしれない。

と、ここで終わればカッコいいのだが、またふと別の疑問が浮かんでしまった。あぐらを「かく」の「かく」とはいったいどのようなことなのであろうか。「正座をする」とは言うが「あぐらをする」とは言わない。不思議である。辞書の旅はまだ続くのであった。

すると、これは意外にもすんなりいった。「構く・繁く」である。これもまた大変に読みづらいが、意味的にはとてもいい。足を構築する。まさしくあぐらである。納得の漢字である。

また、構築するとはなにか「城」に通じるものを感じる。なるほど、時代劇では身分の高い人はみな胡坐であり、庶民は正座である。なかなか面白い現象だ。中国では蔑称、日本では偉人の座り方。我が祖先はどこから来たのであろうか。

と、ここで終わればよいのだが、ふたたびまた我が内なる心情を暴露せねばならない。

「かく」といえば「かく」である。男性諸君の青春の日々である。

まさか、あぐらをかくのかくがこのかくではなかろうと思い、当然のことながらそれは「掻く」であった。その意味は広辞苑をもってして23文字組の44行という大作である。すべてを書きつらねるわけにはいかぬが「手その他のものを動かしまわす」とあり、大変に腑に落ちる。

では、そのかくの目的語であるマ〇はどうであろか。恐る恐るページをたぐれば、「升・枡」→分量をはかる器、「鱒」→サケ科の海魚、「masu」→①塊。集まり。②大量。多数。

と、以上である。これだけしかない。

これでは天下の広辞苑といえども手落ちである。全国の男子諸君の誰しもが経験することが辞書に載っていないとはなにごとであるか。

であるならば、我が心の友である「新明解」に頼るしかない。しかも、伝説の『第三版』である。彼ならば期待を裏切ることはあるまい。そっとページをたぐる。

あった。モロにあった。そのまんまである。実に潔い。

やはり辞書は「新明解」に限る。

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投稿者: keishoseminar

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